歴史人✖️キャリア理論|吉屋信子03「編み直し」
第3回
編み直し
過去に意味を与え直した物語の力
01
敗戦が終わらせたもの
『花物語』『地の果まで』『良人の貞操』…。
1945年。敗戦は、日本という国だけでなく、多くの人々の人生を一変させました。それまで「正しい」と信じられていた価値観は大きく揺らぎ、社会の空気も急激に変わっていきます。そして、その大きな変化は、吉屋信子にも押し寄せました。
戦時中、信子は「従軍文士」として戦地を訪れ、ルポルタージュを執筆していました。しかし戦後になると、その行動には厳しい視線が向けられるようになります。
「昨日まで称賛されていたことが、今日は批判の対象となる。」
そんな激しい価値観の転換の中で、信子は自らの過去と向き合わざるを得ませんでした。それは単なる社会的な立場の変化ではありません。
「作家としての自分」
「これまで信じてきた価値観」
「自らの人生そのもの」
それらが一度立ち止まり、問い直されることになったのです。敗戦は、吉屋信子から多くのものを奪いました。けれど同時に、信子が新しい人生を始めるための「終焉(Ending)」でもあったのです。
02
背景の理論
この敗戦後の吉屋信子の葛藤と、そこからの立ち直りを読み解く上で、大きな道標となるのが「2つのキャリア理論」です。
ブリッジズの「トランジション理論」
ブリッジズは、異動や退職、敗戦といった目に見える出来事そのものを「変化(Change)」とし、その変化を心の内部で受け入れ、消化していく心理的なプロセスを「トランジション(Transition)」と区別して定義しました。つまり、本当に大変なのは、出来事そのものではなく、「変化した現実を自分の人生として受け止めること」なのです。
そして人が転機を乗り越える過程を、以下の3つの段階で説明しました。
終焉(Ending):
変化に伴い、これまでの役割・習慣・人間関係を手放す段階です。この時期には、喪失感や不安、怒り、混乱といった感情が生じやすくなります。中立圏(Neutral Zone):
古いものを手放した後、新しいものがまだ定着していない不安定な時期です。この時期は、混乱や空虚感がある一方で、創造性や再編成のチャンスでもあります。開始(New Beginning):
新しい役割や価値観に同一化し、エネルギーを取り戻す段階です。この時期には、希望や意欲が湧き、行動が安定してきます。
多くの人は焦ってすぐに「新しい始まり」へ向かおうとします。しかしブリッジズは、最も重要なのは「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」であると説きました。迷いや喪失感を抱えながらも焦らずに立ち止まり、自分自身を見つめ直す時間の中にこそ、次の新しい人生の種が眠っているのです。
サビカスの「ライフテーマ(根っこの物語)」
では、私たちはどのようにして過去の出来事と向き合い、新しい人生を歩み始めるのでしょうか。そこで重なるのが、サビカスのキャリア・コンストラクション理論です。
サビカスは、キャリアを単なる職歴の積み重ねではなく、「人生の課題を解決しようとするプロセス」と捉えました。そして、人が人生を通じて無意識に解決しようとしてきた問いや願いを「ライフテーマ」と呼びました。
ライフテーマとは、あなたの人生を貫いている「根っこの物語」です。人生で起きた出来事は、そのままでは単なる事実に過ぎません。
しかし、人は自らのライフテーマというレンズを通して過去に新たな意味を与えることで、成功も失敗も、批判も葛藤も、一つの物語として再び語り直すことができます。サビカスは、このプロセスを通して、人は過去を背負い続けるのではなく、過去を未来へつながる物語へと編み直していくのだと考えました。
では吉屋信子は、ブリッジズのいう「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」をどのように生き抜き、サビカスのいう「ライフテーマ」を通して、自らの人生をどのように編み直していったのでしょうか。
03
吉屋信子と「人生の編み直し」
この2つの理論を通して見ると、敗戦後の吉屋信子が歩んだ「再生のドラマ」が鮮やかに浮かび上がってきます。
敗戦直後の信子は、まさにブリッジズのいう「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」のただ中にいました。戦時中の選択に対する社会からの厳しい視線。昨日まで評価されていたものが批判の対象となる現実。そして、自らの過去と向き合わざるを得ない苦しみ。過去を簡単に切り捨てることもできず、かといって傷ついたまま立ち止まり続けることもできない。信子は、そんな混沌とした時間を生きていました。
しかし信子は、その中立圏から逃げることなく、自らの原点と向き合いました。そして後年、『徳川の夫人たち』や『女人平家』といった歴史小説の執筆へと向かい、見事な「新しい始まり(New Beginning)」を切り拓いていきました。
一見すると、少女小説や家庭小説を書いていた頃とは、まったく異なるジャンルへ転身したように見えます。しかし、彼女の「根っこ」は何も変わっていませんでした。
サビカスのいう「ライフテーマ(根っこの物語)」の視点で見てみると、吉屋信子のキャリアを貫く一本の太い幹が見えてきます。
信子のライフテーマとは、「どんな時代や構造にあっても、抑圧される女性たちの内面をすくい上げ、肯定し、彼女たちの居場所(光)をつくる」という問いであり、役割でした。
その視点で振り返ると、少女たちの憧れや友情を描いた『花物語』も、家庭という枠組みの中で生きる女性たちを描いた『良人の貞操』も、そして晩年の『徳川の夫人たち』『女人平家』も、実は一本のテーマによってつながっていることが見えてきます。
時代は違っても、立場は違っても、信子が見つめ続けていたのは、時代の制約の中で懸命に生きる女性たちの姿だったのです。
サビカスの言葉を借りるなら、信子は過去を消したのではありません。少女小説家だった自分も、家庭小説家だった自分も、戦時中を生きた自分も、そのすべてを抱えながら、一つの物語として語り直したのです。
人は過去を変えることはできません。けれど、過去に与える意味は変えることができます。
信子にとって晩年の歴史小説は、女性たちの歴史を描くと同時に、自らの人生に新たな意味を与える営みでもありました。それは過去を書き換えることではありません。過去に新しい意味を与え、人生そのものを編み直す作業だったのです。
04
Take Home Message
私たちは時に、過去の失敗や悔やまれる選択に縛られてしまいます。
「あの時、違う道を選んでいれば」
「なぜあんなことをしてしまったのだろう」
そう自分を責めてしまうこともあるかもしれません。
しかし、過去に起きた事実そのものを変えることは誰にもできません。変えられるのは唯一、
「その出来事に、今ここからどんな意味を与えるか」
だけです。
ブリッジズが教えてくれるのは、人生には焦らずに立ち止まり、悲しみや迷いと向き合う「中立圏」の時間が必要だということ。
サビカスが教えてくれるのは、自分の「ライフテーマ(根っこの願い)」に気づいたとき、人はいつでも人生を一つの物語として編み直せるということです。
過去の傷も、迷いも、遠回りさえも、すべてはあなたの幹から伸びた大切な枝葉です。大切なのは、それをなかったことにすることではありません。
人生の過去を書き換えることはできません。しかし、過去に与える意味は変えることができます。そしてその意味づけが、あなた自身の人生の物語を、もう一度編み直していくのです。
05
次回は
少女小説家としての鮮烈なデビューと成功。
男性中心の文壇からの冷笑と葛藤。
太平洋戦争という抗いがたい時代の濁流。
そして、傷を抱えたまま人生を編み直した晩年。
吉屋信子は、そのすべてを抱えながら、自分自身の足で77年の生涯を歩み切りました。では最終的に、彼女はどのような「キャリアと人生の完成形」を世に残したのでしょうか。
次回、最終回。「他人の評価を飛び越える ― 選択を正解に変えた生き方」と題して、ジェラットの「積極的不確実性」とハンセンの「統合的ライフ・プランニング(ILP)」を手がかりに、吉屋信子が仕事、愛、学び、そして居場所をどのように結び合わせ、自分だけの美しい人生のキルトを織り上げていったのかを紐解きます。

自分の人生を編み続けた
プロティアンな文学 吉屋信子
自分の人生を編み続けたプロティアンな文学家 吉屋信子
歴史人をキャリア理論で読み解くって
歴史に名を残した人々も、私たちと同じように悩み、迷い、そして選択しながら人生を歩んでいました。このシリーズでは、キャリア理論というレンズを通して、歴史人の人生を読み解きます。
過去の人物を知ることは、未来の自分を知ること。彼ら、彼女たちの生き方の中には、今を生きる私たちのキャリアや人生を考えるヒントが、数多く隠されています。
文学家・吉屋信子

@いらすとすてーしょん
最初に読み解く歴史人は、全4回でお届けする「文学家・吉屋信子」。
ペン一本で自立し、時代の常識に流されることなく、自らの人生をデザインした小説家です。女性が自分らしく生きることが難しかった時代に、信念と才能を武器に道を切り拓き、多くの女性たちの心に寄り添い続けました。
なぜ吉屋信子は、世間の「正解」ではなく、自らの価値観を選び続けることができたのでしょうか。そして、評価や時代の波に揺れながらも、自分自身の人生を編み続けることができたのでしょうか。
その人生を、キャリア理論の視点から読み解いていきます。
ご案内
本シリーズは、歴史人の生涯を、キャリア理論というレンズを通して見つめ直す試みです。人物の生き方や理論との結びつきについては、HCCジャパン合同会社による独自の視点と考察を含みます。
また本企画は、歴史人物や文学家の魅力を発信する「いらすとすてーしょん」とのコラボレーション企画としてお届けします。
この記事を書いた人
HCC Japan LLC.
代表社員
Waseda University, School of Human Sciences (e-school)
Human Informatics and Cognitive Sciences
2025年4月〜7月
Tokyo University of Agriculture, Faculty of Bioindustry
Eli Lilly Japan K.K.
Sales & Marketing / Sales Manager / Sales Operator
国家資格キャリアコンサルタント (National Licensed Career Consultant) 登録番号25072525
医療経営士 (Medical Management Specialist Third Grade) 3級認定登録番号31310119010282
会社概要
-COMPANY PROFILE-
自分だけの価値観で、豊かな人生をデザインする。
もっと自分らしく生きたい!そう思える社会、そしてより多くの人々が自分自身の人生と向き合い、より豊かな人生を送るきっかけつくりをHCCジャパンはお手伝いします。
HCCジャパン合同会社

